新橋色の空と苟且のプライド
澄み切った青空の下で、朝日に照らされた建物の群像を見ると、幼少の頃病棟の窓からそれを眺めていた事を思いだしてしまった。
今では筋肉質で体力もありそうな、見た目頑丈で健康的な体を持っているが、生まれて小学校に上がるまではひと月置きに入院するような虚弱児だった。一度医者にもわからない不明熱を出して大病院に運ばれ、親に「この子死んじゃうかも」と思われた事もあったらしい。
ずっと病棟で暮らしていたという程悲劇的な(これはそうやって生きて来た人には失礼か)日々ではなく、しばらく保育園に通っては度々入院するという程度だった。けれど、病棟の景色はもう入院なんて20年もしてないのに保育園の景色よりハッキリ覚えてる。
そんな中、運動面や交遊面で充実するのはその年齢の子供同士でやるには中々困難で、「おともだち」の付き合いも保育園の"外"を越える事なく、"お遊戯"もドベっぷりを晒し続けていた。
「○○くんち、あそびに行くー」とか「なにやってんのまぜてー」とか、そういうのを投げかけにくい。「もう"おともだち"はぼくのにゅういんちゅうになかよくかたまってしまっていた」そういう感じ。
あと男の子は駆けっこ、なわとび、タイヤとび、で実力買われないと仲間内に認めてもらえない社会があったね。
未だに運動そのものにコンプレックスもあるし、人との交遊においても距離感を常に感じるのはここからかと思うと呪いにかかったようだ。あまりそう考えたくはない。
それはそれで、忘れたかったのはここからだ。
母は自分の養育費と医療費をまかなう為に働きつつ、乳幼児だった妹も世話しながら自分が入院している間、ずっと病室の僕のベッドの下で寝泊まりしていた。
僕個人の体質であろうのに、母は祖母からの「子育ての怠慢」として非難されていた。それは物心ついてから嫌という程、祖母は僕自身の不始末やアレルギー体質にでさえ母の所為にしたのを見てきたから想像つく。
母はそういう意味で、自分の初めての子を、不必要な強迫観念を持って看護していたのかもしれないし、病床の子の傍にいる事で親としての責務と祖母からの逃避をしていたのかもしれない。
そんな状況が嫌だった。
「食べ物に好き嫌いがある」事も「食卓で明るく保育園であったことなどを話してくれない」事も、そして自分の体質的な問題も、目の前で親の所為にされた。
好き嫌いを克服する他なかった。食事の席では自分からなんでもいいから話題を出すしかなかった。自分の体の問題を咎められないよう、健康になるしかなかった。
たかだか、あいうえおも正しく書けない子供にそんな事わかるかよ(かなの読み書きは入学前に出来てたけど一応)。とも思うが、祖母にとっての初孫(母の子では無い、要するにイトコ)たちの健康で勤勉な様を満足気に自慢して、比べ「あなたもがんばろうねぇ〜」とやっと出来た男孫にかけた期待というかプレッシャーは大学に入るまで逃げる事もできなかった。人生のほぼすべてに渡った呪縛だった。
通知表の時期は「あなたも成績高くないとねぇ〜」*1
やれ、先の孫が進学校に上がったら、「あなたもこれくらい良い高校いけるといいねぇ〜」
*2
ムキになって勉強した。友人も作った。いつまでもスポーツが下手なのが嫌だから無理した。*3。嫌でも運動神経が発達する幼少期の運動が大事だとわかった。反射神経の出来が全然違う。
自分は好きな事やってるつもりだった。でも、節々でそれは「祖父母から親を守る」直感で働いたんじゃないかと思ってしまう。
誰かの為に生きるなんて考えるもんじゃない(大抵その人への押し付けがましいエゴで終わるから)。
だけれど自分は本当に今迄の選択をそんな風にやれてたか? 祖父母が親にやっかみしないよう運動部に入って健康なフリしたり、わざわざ全力で受けないと無理な進学校に入ろうとしたり、親離れならぬ祖父母離れがしたくてわざと反対するような大学を選択したんじゃないのか?
澄み切った青空の下で、カーテンを透かして入る日が照らすモルタルの壁を見ると、幼少の頃病棟の一室でそれを眺めていた事を思い出してしまった。
母は「もうすぐよくなるから」と言ってくれた
あれから20年かけて手に入れたものは、誰かを守る為に手に入れた見せ掛けだけのかりそめの肉体と知恵でしかなかったのか。