つきあたりを右に

つれづれと思うままに綴る

他人へのお節介で「優しいワタシ」を自己実現する人たち

このところ、"自分からはそう見える"一つの人々のパターンがあって、それは「Aという目的を実現したい」のではなくて「"Aを実現できるワタシ"を自己実現したくて動いている」人、というのをキーワードにして考えている。

問題に便乗して自己実現がやりたいだけの人たち

例えば、普段から自分の選挙区の候補者をマメにチェックしているわけでもないのに、選挙の時期になったら「投票に行かないのは非国民だ」とばかりにまくしたてたり民主党政権下の不義等々を雄弁にtwitterに垂れ流したりRTする事で「憂国の士であるワタシ」を実現しようとする人々。

例えば、もうデスマになり、人がどんどん去る中、自身が組織をブラック企業へ順調に育てている事を認めず、よりパワハラや根性論ベースの成功体験の押し付けを続けて働き手の心身を疲弊させる、「ビジネスパーソンとして優れたビジョンを持ち、マネジメントの手腕もバツグンでサクセスストーリーを歩み続けるワタシ」を実現しようとする人々

例えば、「誰かの誕生日お祝いパーティしよう!!」と企画はするものの、主賓たる本人の都合を考えようとせず「あれやったら楽しいんじゃないの」「これやったら楽しいと思う!」とどんどん"自分が楽しめる"事だけを基準に企画を進めていって、祝われる当人がどっしり気分を重たくさせる、そんな「ムードメーカーで仲間内の盛り上げ役」を実現しようとする人々

例えば、心労極まって親しい人から心配される事すら重荷に感じるような繊細な状態の人に「つらい事があったら、何か力になりたい、自分がいる事で、何かあなたが良くなれるような事をしてあげたい」なんて台詞を"わざわざ"伝えて猶の事メンタルヘルスを悪化させているような「本当に思慮深く、友人思いの優しいワタシ」を実現しようとする人々

「自己実現ができるかどうか」を本題にされる

すべての人がそういうわけでもないし、自分にだってそういう「こうありたい自分」の為に対外的な振舞いを無自覚にやるだろうと思っている。

が、厄介なのは相対的に「自分よりも"その"傾向が強い」と感じさせる人は、大抵直面している具体的な問題がその人と一緒では絶対に解決する為の進展を見せない、という経験則だったりする。

2例目に挙げたブラックな組織のマネジメントの場合、直面している問題は「火を吹いているプロジェクトの鎮火」であり、長期的な課題として「そもそも火を吹くようなマネジメントを回避する事」であるはず。が、「自分のフォローによって解決となるかどうか」で物事を決められてしまう。

4例目であれば、労りたい相手が自発的に関わり合おうとするまで心の調子を回復させられるかどうか、が肝心であるはず。しかし、それでは「友人のメンヘルを解決してみせた」パフォーマンスができないが故にお節介を繰り返す

「こうありたい自分」の自己実現で動く人たちにとってはそれは大きな問題ではなく、その場その場で実現できているかの方が重要になってしまっている

自己実現がしたいだけの人とは、問題解決のパートナーになり得ない

自己認識というものは比較対象や、評価者である他人からの反応を受け、それを自身の経験則により判断していくインタラクティブなもので「自分か常になんらかのアクションを働きかけ」るか、あるいは自分を知る人間からの評判を把握することでしかその判断材料を得ることができない。

簡単に言えば、カタチを変えた「かまってちゃん」であり、ゼロから何か為して周囲の注意を引き承認欲求を満たそうとするよりは、終結に時間のかかりそうな問題に便乗しながらその中でアテンションを得る方が、お手軽に承認欲求を満たせるというわけだ。

よって、そういう人と共闘で一つの問題解決にとりかかろうとすると、「実際に解決せないかんので方法を考えたい」自分と「解決する事ができる自分でありたい」人とで視点の違いで苦労する。実際した。

そんな話。

蛇足

何かと定期的に話題になる「はてブのコメントのいけ好かん印象」問題、あれも100字内でさらっと一言で済まされてしまう故に何かこう「賢い自分」の自己実現をされてしまってるんじゃないか、みたいな、そういう被害妄想をしやすい感じがあるんじゃないかなぁと、ついでに思った。

あー、togetterの一部キモく感じるのもとある問題についてのtweetまとめて適度に自分の主張もおりまぜる事で「この件に関して明晰な分析、深い理解を持っているワタシ(別に問題自体がこれで早急に解決するかどうかは知らね)」っていう自己実現欲っぽいのが感じるからなのか

だるい、自己実現って文字打ちすぎだ