つきあたりを右に

つれづれと思うままに綴る

ゲームばかりして少年時代を過ごしていたら、ゲームで飯が食えるようになったある男の話

新年あけましておめでとうございます

本名よりもHNの方がGoogleで返す情報量の多いVoQnです。

昨年末に、「ある少年に、ゲームをする時間よりも有意義な時間の過ごし方があると諭した」という記事が賛否問わず話題となりました。

DSの中でキャラクターが強くなって、それで?君は何を得たの?答えはゼロ、なんにも得ていない。仕事を頑張ったらお金がもらえるけど、それもない。勉強でもスポーツでもないので、一つでも漢字を覚える(つまりもっといろんな本が読めるようになるってことだ)、計算ができるようになる、サッカーがうまくなる、もちろんどれもない。ゼロ。君の未来の何にもつながっていないんだ。なるほど、それはわかるんだね。


ということは君がDSに使っている時間はすべてゴミだということだ。ほら、床に落ちてるホコリとかゴミがあるだろ。これと同じ。全てゴミとして君は時間を捨てている。もちろんね、生きていて無駄なことなんてたくさんあるよ。いくら頑張ってもむくわれないことなんてね。でもさ、最初からゴミだってわかってることをやる必要はないんじゃないかな。

(引用元):やま〜んの箕面ロードバイク日記

なんかこれを読んでいて、「そういえばちょうど20年経ったなぁ」と、初めてSFC(スーパーファミコン)を買ってから、『ゲームばかりしていたらプロとして飯が食えるようになってしまった』自分の事を書こうと思います。


[先に結論] あなたの人生がどうなるかわからんように、その子だって何で光るかわからんから、”縛るな、背を押せ”

人生回顧エントリなので長いので先に言いたいことを述べると、
二転三転しながらも、最終的に最初に夢中になった事を仕事にできていて、回り道した分は”ぜんぶ役に立ってる”。だから他者の興味や趣味を断たせるような諭し教えをしてその可能性を殺すようなマネをするくらいなら、そうでなく「好きなままだけじゃない」ように視野を広げられるような応援に留める方が良い

自分は現職で少年時代に夢中になったアニメ、ゲーム、マンガ、どれもこれも「そればっかりに夢中じゃロクな大人になれない」と大人たちに言われてたものが自身の仕事で役に立っていますし、結果としてサービスのUXだとか、デザイン品質としてユーザーに提供する価値を出す努力を続けられています。


「何かが役に立たないムダなモノ」ではなく、「それを私の”何”の役に立てようか」という視点を持てるか という話です。よく「学校で習ったことなんて社会で役に立たないよ」って話する人いますけど、学校で得た芸術、デザインに関する知識や、そこでやってた実習で得た感性や経験は、プログラマーとして働いていた前職、前々職でも十分に役立てられました。

使いこなす気の無い道具は、そりゃ机の引き出しに閉まったまま「使わないし、使えない」ままになりますよ、ただし、それはその人にとってというだけの話


以上が本旨で、以降はそれの説明の補強としての、自分の半生についてです。

長いよ! 本当に長いよ!元旦に読むんだったら初詣とか親戚に挨拶回りとか初売りの買い物終わらせてから読んだ方がいいよ!

1993 - 自分の小学校1〜3年生までの間にどんなゲームが話題になっていたのか

時は1993年の11月の事です。当時小学3年生だった自分の周囲は着々と「え、お前んち”まだ”スーファミないの?」というスクールカーストのある指標ができ始めており、かつ当時('91-'93)のヒットタイトルといえば

今振り返ったら、業界視点でみればプランナーが「絶対にこんな年にタイトル出して競うとか嫌だ」ってしっぽ巻いて逃げるようなラインナップが市場のパイを奪うような、それくらい錚々たるタイトルが出揃っていた時期でした。

1993 -『今後、通知表の成績下がったら取り上げていいからスーファミを買わせてくれ』

自分だって欲しいものは欲しい。特に当時はRPGジャンルが小学生の間では「ゲームの王様」だったので複数人でプレイして満足できるものは少なかったし、対戦モノも「自宅で練習してないとスキルの差で勝ちようがない」というものでした。

なので、両親にこんな交渉をしました。

「二学期の通知表が、一学期より上がっていたら、自分の貯金で買うので、スーパーファミコンを買わせてください。ソフトも、当然お年玉とか、お小遣いを貯めたものとか、基本的にねだらずに自分の貯金を使って買います。今後、ゲームのしすぎで、成績が下がったら取り上げても良いです。けど、成績が上がる、または同じままだったら、ゲームをさせてください」

この宣言の通り、ちゃんと前学期の成績を上回り、無事当時発売したばかりのロマサガ2と共にSFCを買うことが出来ました。以後、小学校を卒業してから高校に入るまで、このルールは適用されつづけ、成績を維持か上げながらゲームばっかりしていました。

1995 -「いつかゲームを作る人になりたい」

「ケーキが好きだからケーキ屋さんになりたい」
「サッカーが好きだからサッカー選手になりたい」
「マンガが好きだから漫画家になりたい」


小学校低学年のキャリアプランというのはだいたいこういうレベルのロジックでして、それに漏れず自分も「ゲームは新しいものは新しいもので別の楽しみがあるし面白い。自分もゲームを作れる仕事とかしたい」と思うに至るわけでした。

その頃というといよいよ「IT革命」とか「ウィンドウズ」というワードがTVニュースにも出てくる95年で、ISDN、マッキントッシュ、インターネットという言葉が10才前後の子供らでも知ってる用語となってきます。


「そうか、ゲームを作るには ”ぱそこん” が要る。で、”ぱそこん” で ”ぷろぐらみんぐ” をして作るのか」と知った僕は市営公民館の図書館に行っては、「Basicを使ったCG入門」とかを、訳もわからず読みはじめ、コンパイラはおろか、コンピュータさえ持ってないのにとにかく「ゲームを作る方法」を自習しはじめていました。


「特に絵が描きたいんだ」ということで週刊少年ジャンプの新人マンガ賞の応募コーナーに載せてる、連載作家が描画テクニックを読みながら無駄にベタフラ/カケアミ、やトーンフラ/削り/ボカシ、コマ割りやらつけペンの使い分け等々を見よう見まねでマネしたりしていました。
たしかベタフラのテクニックは井上雄彦先生が書いたやつだったと思う。

今ほど作画ノウハウや、マンガ絵に関するテクニック本が本当に無い時代かつ「そんな本ってどうやって知れば良いのか」という状態の小学生でしたから、そうやってくしかなかったのでした。


中学校の進路希望には「大学の情報工学科でコンピューターサイエンスを学ぶ」とか書きました。
そん時は本当にそれくらいのアホな認識でした。

1998 -「(CGやりたいので)いちばん良い高校選ぶから、受かったらパソコン買って」

中学に入ってから、ティーンエイジャーのマストアイテムはSFCからPlayStation(PS1) になりました。3D TV が流行った数年前と似たように、ゲーム業界にも「これからは擬似でもプリレンダでもない、ホンモノのリアルタイム3DCGをゲームで動かすんや!」みたいなムーブメントが起きていたようで、PCソフト含みでこんなタイトルが出てた時代でした

うわぁこの時代のタイトルも勝負挑みたくねぇ…

僕個人でいうと、まだPS1もFF7も発売する前、NHKの「進化するゲーム技術」みたいな深夜特番で、3DCGで動くFF7のバトルシステムプロトタイプを見て「すごい!3DCGのキャラ自分でこんな風にコントローラーで動かせるようになるんだ!」と目を輝かせたのが始まりでした。

(どういうのかというと、武蔵伝くらいの3等身キャラがFF6の”死闘”をBGMに殴りあってる映像)


FF6死闘 - YouTube


それでもういよいよ我慢できなくなって両親に今度はPCを買いたいと打診するのですけど、当時のWin98が乗ってるデスクトップPCって、普及モデルクラスでも20万近くする値段でして、しかも親には用事の無い代物でしたから簡単に首を縦に振ってはくれないわけです。


そこで、「じゃあ、進学できる中で一番進学率の高い高校を合格したら、買ってください。ソフトとかは自分の貯金で買います」っていう約束をしてもらい、普通に3DCG作れる環境欲しさに受験勉強して、合格しました。

新作で 7800円するゲームソフト買いながらの 高校1年生の貯蓄状況で買えるソフトは Shade の廉価版と Photoshop Elements がせいぜいでしたが、最初に「ゲームつくりたい」って思い始めてから7年近く経過して、やっと”コンピュータ”を手に入れます

2001 - 挫折して方向転換しはじめる 始まり

ここまでは親に対して欲しいもの、やりたいことを打診してはその条件として「高成績であること」を締結して有限実行できてきたのですが、ここから自分のキャリアプランは二転三転しはじめます。


Shadeベジェ曲線ブーリアン演算などの概念を覚えつつ、タチコマもどきのメカをモデリングしてみたり、ロックバスターみたいな砲身からエネルギー弾を出すアニメーションを作ってみたりと最初は楽しいものでしたが、

肝心の「大学は工学部でプログラミングを」の部分で挫折しました。

文理選択で理系を選んだものの、数IIBの「場合分け」と「論理・集合」のあたりで演算内容でなく「p -> q の 対偶は何か」といった問題に
「え、えっと… 対偶って、裏の逆?逆の裏? 裏って逆のなんだっけ…」てな風に、”日本語にされた指示詞の意味”に混乱して解けませんでした。

物理の方も、浪人するまでは物理現象とその表現する式が頭の中でつながらず「自分理系には向いてないのかもな…」と諦めたくなる日々でした。


「そもそも、ゲームっていうか、本当は”自分の作ったキャラクターを自分で動かしたい”のが本願じゃなかったのかな」、または「自分の脳内にあるストーリーとグラフィックを、サウンドと共に堪能できる実体を作れればそれで良いのでは」と思うようになります。

で、そうだ、僕はデザインが本当にしたかったんだ とか開きなおり、大学進学を筑波大学の芸術に変えます。

2007 -「デザイナーにもなれない」

いきなり美術教育をマトモに受けてないのにいわゆる美大受験をして現役で受かるはずもなく、一年間の浪人を経て筑波に入って、本当に実りある上にカリキュラムが「全部自分の興味あるもの」で「高校までの学校ってなんだったんだ」と感激しながら、勉学と技術鍛錬を謳歌してはいましたが、就活で詰まりました。


素直にイラストレーションの専攻ないしグラフィックデザインの専攻を選べばよいものを、なぜか「どうせだし、今まで関心のなかった分野のデザイン知りたい」とプロダクトの方を選んでしまい、しかもそれがあまりにも面白かったので、すっかりイラストなんか書かずカースケッチやモデリング(粘土とか発泡スチロールを相手にする方)ばかりやっていて、絵のセンスはまったく鍛えませんでした。

もうその時は「自分はメーカーのプロダクトのデザイナー、あるいはインターフェースのデザイナーになるんだ」って進路が変わってしまっていましたし、大学生活の中で「洋画や日本画の人たちには”絵”でなんて絶対に勝てっこない。レベルが違いすぎる」と「ビジュアルを作って商売にすること」に諦めていました。

ちょうどリーマン・ショック前夜くらいの危うい好景気で新卒も売り手市場と言われていた当時ですが、メーカーのデザイナー職ってそもそもがとても採用が厳しいもので、全滅して「就職浪人かぁ…どうしようかなぁ…」となっていた時に twitter を始め、その2ヶ月くらい後に id:yoshiori と出会います。

2008 - よしおり という人と「エンジニアでもやりたい事は一緒だったんや」

彼は一回り年上であるのに、初対面でも親友気取りかよってくらい親しくしてくれて、かつ生まれてはじめて「エンジニアの矜持とデザイナーの矜持ってどこに差があるのか」みたいな話をしました。渋谷のカラオケ屋で初対面なのに朝まで何も歌わずそんな話した。

(あとこの話からエンジニアに至るまでの話は超絶にコンテンツ力あるし長々と書きたいので続きはまた書くよ)


結論として「立ってる位置と持つナレッジが違うだけで、ゴール自体は同じものを見てるんだね」みたいなことを知り、すっかり忘れていたプログラミングへの興味がここから復活します。


2007 年というのは Web2.0AjaxPrototype.js っていうか jsonマッシュアップサービス、Firefox 拡張、UserScript と UserStyleSheet で「Webはハックできた方が楽しくてロックなんだぜ」みたいな雰囲気がありまして、

Vimparator, Tombloo, Minibuffer って単語で「あ、嗚呼っ」ってなる人もいると思いますし、LDR 拡張 user.js とか Yahoo.pipes とか、「それPlaggerで出来るよ」とか聞いて「ああっ、あああっ」ってなる人もいるかと思います

デザイン系の学生にとっても ActionScript3.0 とか MaxMSP とか、 Processing などの「アート界隈ゆかりの人でもコードの世界に入れる」環境が整いつつありました。


で、Processing からプログラミングを「ゲーム作りたい」と思い始めて15年経過してからやっと始めます。

2009 - 結果としてエンジニアとして社会人になってしまった

Processing の line(); とか rect(); だけじゃどうしてもプログラミングできた感が覚えられず、就活浪人が確定してからは卒論も放棄して、授業は人文学系の「哲学」3単位分だけ出席して新卒応募が始まるまでの半年ずっと色々なプログラミング言語を試しては、わからずじまいに悩むという日々をすごしていました。

scheme(gauche), haskell, ruby, python, javascript, c を何回も周回しながら手当たり次第コードを書き写しして、動かして。


ただ、そうしていく内に「なにからなにまでわからない、というものでもない」と感じるようにもなっていたし、気がつけば GUI プログラミングは「たぶんそのうちできる」と思えるようになってきていました。

ユーザーインターフェースは”外見と操作と反応”がセットだ。だからその部分を”作”れないと絵に描いた餅を描いて満足するデザイナーになってしまう。だから実装者こそが本当にデザインしてる」とか考えるようになります。


「いつかは自分でゲーム作れるようになりたい」と願った少年は
コンピューターサイエンスを学ぶことを高校の成績で諦め、
プロダクトデザイナーになることを大学の就活で諦め、
結果、プログラマーとして最初の会社の内定をもらいました。

2013 - 結果回り道してたら、必要なスキルとナレッジが揃ってしまった

プログラミングとデザインを続けている理由 - つきあたりを右に でも少しふれましたが

twitter の初期から知る人にとって VoQn というキャラクターは「デザインというか、芸術系の学生」で認識してる人がいるかと思いますし、
github(というか gist) と はてなグループ(ハチロク世代) と Qiita で知ってる人は「プログラマー」として認識してる人がいるかと思います
ニコニコ書籍が公に出せて、windows8 クライアントに関わっていた頃あたりに知った人だと「UX, UI な人/ニコニコのデザイナーの人」で覚えた人とかでしょうか


今は、ゲームデザインに関わる部分でディレクター的な事をしていたり、ゲームグラフィックのデザインをしてみたり、ゲームシステムにテコ入れする案を考えていたり、そのちょっと前はC#とかLua書いてゲームのプロトタイプも作っていました。

気がついたら20年かけて「ゲーム作れる人」になってしまっていました

しかも、今まで5年スパンで諦めていた『将来の夢』は結果的に全部やってました

今年は更に過去に諦めてたキャラクターデザインとか背景画だったり3Dモデリングにも再挑戦しようかとさえ思っています。

”今までやったことは活きるのか”じゃなくて、”今までにやったことを活かすには”が大事だと思います

冒頭の問いかけに戻ります

それで?君は何を得たの?答えはゼロ、なんにも得ていない。

あくまでも極端な、たったひとりのサンプルですが、「学歴と職歴と子供の頃に叶えたかった将来の夢」を得た人間なら、確実に一人、ここにいます。


職場でも子供の頃にやったゲームの話しますし、デザインロジックを詰めるにいたっても「聖剣3って敵と味方とで回復とダメージ値の色パターン分けてるのはこういう効果があるからだよね」みたいな話して活かしてたりするんですよ。


ゲームだけじゃなくってスマートフォンのアプリのUIインタラクションやUX設計で子供の頃に感動したゲームの爽快感をモデルとして採用して試行したりもします。


重要なのは、「無駄になるのかじゃなくて、無駄にさせないためには」なんだと思います。
だから、冒頭の少年への「やめるよう色々と”大人の”理屈で可能性を封じる」のは、”大人”からしたら直近の「望ましい結果」を得られますが、その本願である「その子の可能性を狭めないように」という部分では、いっちばん良くない愚策に思えるのですよ。


「ゲームで得られた作戦の立て方とか準備とかで、囲碁に似てるところってあるのかな?」とか
囲碁も一つの(コンピュータゲームではないけど)ゲームだよね、囲碁で考えるようなことってその君の今やってるゲームで活かせたりする?」みたいな、そういった語り合いをした方がずっとずっと創造的なやりとりじゃないですか。

2014 - [最後に]ゲームに育ててもらったようなもんなので、今年からは「ゲームに恩返し」したい

最後はあくまでエゴの話。

輸入されてきた日本の特撮映画みて育ってパシフィック・リム作っちゃった ギレルモ・デル・トロ もそうですし
キャプテン翼読んでサッカー選手になっちゃった ジダン、トッティ もそうですし
ゼルダとロックマンやりまくってゲームクリエイターになっちゃった Team Meat もそうです。

たとえ当時の大人が子供に忌避させたいような娯楽でも夢中になった子供が社会に影響してしまうような偉業を果たしてしまうきっかけになるようなコンテンツって存在しています


自分もゲームに夢中にさせてもらえて、結果として人生の殆どが遠近あれどゲームに関わらせてもらっています。

課金でショートとか、本当にゲームをプレイする以外何もできない廃人とかまでプレーヤーを貶めたりはしたくはないけれど、

「ゲーム好きでよかった」とか、「これでゲームするって事自体の楽しさはわかった」とか、

あわよくば
「自分もいつかゲーム作りたいな」と思ってくれるような、

そんなタイトルを一本いつか出せたらいいな、出せるようになりたいなと


その為の努力と多少なりの成長を 2014年の抱負としたいと思います