多少の秘密と多少の嘘、多少の「ほんとう」
すべてを聴く人
仮に「誰彼問わず、人の言う事すべてを真として受けとる」という人がいたとして、その人は、全てを信じているんだろうけど、その人自体はおそらく誰からも信用されないのだろう
目に見える事、耳に入る事すべてが本当だと信じてしまうのは、嘘か誠かを見極めていないという事だし、その人の話す事柄も嘘か誠かわからないものになる。その人にとっては全てが真実なのに
「誰の言う事も信じず、自分だけを信じている」という人の方が、「その人の言葉はその人のありのままの真実」だとしてわかりやすく、誰にとっても「信じやすい」。「誰をも信じる人」を信用できなくて、「誰も信じない人」は信用できる、そんなねじれ
すべてを話す人
仮に「誰彼問わず、人にすべてを話してくれる。私事も、見聞きした事すべてを」という人がいたとして、その人は誰をも信じているんだろうけど、その人自体はおそらく誰からも信用されないのだろう
自分の見聞きした事をすべて話すというのは、隔りなく関わる人すべてに秘することなく自ら(自分と、自分の身の回り)を晒け出せるという事だけど、その周囲の人にとっては「この人は私の秘めていたい事まで、私の知らぬ所で明かしてしまうのだろう」と警戒される
「誰の事も話さず、自分の事も話さない」という人の方が、「その人は私の公にしたくない秘密も、きっと守ってくれる」と思いやすく、誰にとっても「信じやすい」。「誰にでも話す人」を信用できなくて、「誰にも話さない人」は信用できる、そんなねじれ
多少の秘密と多少の嘘、多少の「ほんとう」
結局てきとうに嘘ついたりはぐらかしたり、隠したりしつつも、割とちゃんと本当の事を話す、っていうのを、バランス保ってる方が人として信用できるんじゃないかと思う。
もしかしたらいつでも正直、みたいなのも、人としては面白みが無いんかもしれないし、それだって他人から見たら「表裏くらいはあるんでないの。本音は隠してるだろう」とかなんだろう。
だから人は面白いんだな