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つきあたりを右に

つれづれと思うままに綴る

多少の秘密と多少の嘘、多少の「ほんとう」

すべてを聴く人

仮に「誰彼問わず、人の言う事すべてを真として受けとる」という人がいたとして、その人は、全てを信じているんだろうけど、その人自体はおそらく誰からも信用されないのだろう

目に見える事、耳に入る事すべてが本当だと信じてしまうのは、嘘か誠かを見極めていないという事だし、その人の話す事柄も嘘か誠かわからないものになる。その人にとっては全てが真実なのに

「誰の言う事も信じず、自分だけを信じている」という人の方が、「その人の言葉はその人のありのままの真実」だとしてわかりやすく、誰にとっても「信じやすい」。「誰をも信じる人」を信用できなくて、「誰も信じない人」は信用できる、そんなねじれ

すべてを話す人

仮に「誰彼問わず、人にすべてを話してくれる。私事も、見聞きした事すべてを」という人がいたとして、その人は誰をも信じているんだろうけど、その人自体はおそらく誰からも信用されないのだろう

自分の見聞きした事をすべて話すというのは、隔りなく関わる人すべてに秘することなく自ら(自分と、自分の身の回り)を晒け出せるという事だけど、その周囲の人にとっては「この人は私の秘めていたい事まで、私の知らぬ所で明かしてしまうのだろう」と警戒される

「誰の事も話さず、自分の事も話さない」という人の方が、「その人は私の公にしたくない秘密も、きっと守ってくれる」と思いやすく、誰にとっても「信じやすい」。「誰にでも話す人」を信用できなくて、「誰にも話さない人」は信用できる、そんなねじれ

多少の秘密と多少の嘘、多少の「ほんとう」

結局てきとうに嘘ついたりはぐらかしたり、隠したりしつつも、割とちゃんと本当の事を話す、っていうのを、バランス保ってる方が人として信用できるんじゃないかと思う。

もしかしたらいつでも正直、みたいなのも、人としては面白みが無いんかもしれないし、それだって他人から見たら「表裏くらいはあるんでないの。本音は隠してるだろう」とかなんだろう。

だから人は面白いんだな

新橋色の空と苟且のプライド

澄み切った青空の下で、朝日に照らされた建物の群像を見ると、幼少の頃病棟の窓からそれを眺めていた事を思いだしてしまった。

今では筋肉質で体力もありそうな、見た目頑丈で健康的な体を持っているが、生まれて小学校に上がるまではひと月置きに入院するような虚弱児だった。一度医者にもわからない不明熱を出して大病院に運ばれ、親に「この子死んじゃうかも」と思われた事もあったらしい。

ずっと病棟で暮らしていたという程悲劇的な(これはそうやって生きて来た人には失礼か)日々ではなく、しばらく保育園に通っては度々入院するという程度だった。けれど、病棟の景色はもう入院なんて20年もしてないのに保育園の景色よりハッキリ覚えてる。


そんな中、運動面や交遊面で充実するのはその年齢の子供同士でやるには中々困難で、「おともだち」の付き合いも保育園の"外"を越える事なく、"お遊戯"もドベっぷりを晒し続けていた。

「○○くんち、あそびに行くー」とか「なにやってんのまぜてー」とか、そういうのを投げかけにくい。「もう"おともだち"はぼくのにゅういんちゅうになかよくかたまってしまっていた」そういう感じ。
あと男の子は駆けっこ、なわとび、タイヤとび、で実力買われないと仲間内に認めてもらえない社会があったね。

未だに運動そのものにコンプレックスもあるし、人との交遊においても距離感を常に感じるのはここからかと思うと呪いにかかったようだ。あまりそう考えたくはない。


それはそれで、忘れたかったのはここからだ。


母は自分の養育費と医療費をまかなう為に働きつつ、乳幼児だった妹も世話しながら自分が入院している間、ずっと病室の僕のベッドの下で寝泊まりしていた。

僕個人の体質であろうのに、母は祖母からの「子育ての怠慢」として非難されていた。それは物心ついてから嫌という程、祖母は僕自身の不始末やアレルギー体質にでさえ母の所為にしたのを見てきたから想像つく。

母はそういう意味で、自分の初めての子を、不必要な強迫観念を持って看護していたのかもしれないし、病床の子の傍にいる事で親としての責務と祖母からの逃避をしていたのかもしれない。


そんな状況が嫌だった。

「食べ物に好き嫌いがある」事も「食卓で明るく保育園であったことなどを話してくれない」事も、そして自分の体質的な問題も、目の前で親の所為にされた。

好き嫌いを克服する他なかった。食事の席では自分からなんでもいいから話題を出すしかなかった。自分の体の問題を咎められないよう、健康になるしかなかった。

たかだか、あいうえおも正しく書けない子供にそんな事わかるかよ(かなの読み書きは入学前に出来てたけど一応)。とも思うが、祖母にとっての初孫(母の子では無い、要するにイトコ)たちの健康で勤勉な様を満足気に自慢して、比べ「あなたもがんばろうねぇ〜」とやっと出来た男孫にかけた期待というかプレッシャーは大学に入るまで逃げる事もできなかった。人生のほぼすべてに渡った呪縛だった。


通知表の時期は「あなたも成績高くないとねぇ〜」*1
やれ、先の孫が進学校に上がったら、「あなたもこれくらい良い高校いけるといいねぇ〜」
*2

ムキになって勉強した。友人も作った。いつまでもスポーツが下手なのが嫌だから無理した。*3。嫌でも運動神経が発達する幼少期の運動が大事だとわかった。反射神経の出来が全然違う。


自分は好きな事やってるつもりだった。でも、節々でそれは「祖父母から親を守る」直感で働いたんじゃないかと思ってしまう。

誰かの為に生きるなんて考えるもんじゃない(大抵その人への押し付けがましいエゴで終わるから)。

だけれど自分は本当に今迄の選択をそんな風にやれてたか? 祖父母が親にやっかみしないよう運動部に入って健康なフリしたり、わざわざ全力で受けないと無理な進学校に入ろうとしたり、親離れならぬ祖父母離れがしたくてわざと反対するような大学を選択したんじゃないのか?


澄み切った青空の下で、カーテンを透かして入る日が照らすモルタルの壁を見ると、幼少の頃病棟の一室でそれを眺めていた事を思い出してしまった。

母は「もうすぐよくなるから」と言ってくれた


あれから20年かけて手に入れたものは、誰かを守る為に手に入れた見せ掛けだけのかりそめの肉体と知恵でしかなかったのか。

*1:成績下がったらスーパーファミコン次の通知表まで取り上げ、というルールだった

*2:大体大学に「美術系うける」ってだけで大反対したのは祖母だし、受験浪人するっていったら勝手に一家大揉めの大騒動に仕立てて親戚会議まで開きやがった

*3:小:卓球、中:ソフトテニス、高:ラグビー

ドワンゴで働く事になりました

もう先に糸柳に書かれてしまったのですが (参照 → 技術日記 ) 9月16日付で株式会社ドワンゴ研究開発本部・千野執行役員付の下で働くことになりました。

担当する業務は例の悪名高いチーム糸柳の一員として、日がな一日ろくに開発をせず、ドワンゴ社内IRCの #El_Shaddai にて

「そんな勤怠で大丈夫か?」
「大丈夫、問題ない」

「そんな計画で大丈夫か?」
「一番良いプロマネを頼む」

「糸柳、人が持つ唯一絶対の力。それは自らの意思で進むべき道を選択することだ。お前は常に暴君と四日市にとって最良の未来を思い、自由に選択していけ。」

「ああ、糸柳、我々の仕事のしなささにはがねさんが泣いています…」

などと、2011年春発売予定の El Shaddai -Ascension of the Metatron- のトレーラーのセリフを延々と改変して時間をつぶすことです。

いったい何を言っているのかわからない人は、こちらを5回ほどリピートしてご覧になってください

D



冗談はこれくらいにしておいて、実際自分はドワンゴで八面六臂の活躍ができるようなプログラマーとしても、エンジニアとしても才覚をもっているとはとても自認できず(他の人間が優秀すぎる)、なんでまぁこんな調子で入れちゃったかなぁというのが今の素直な心象なのですが

まぁそれは確たるプロダクトを「私がやりました」と胸はって公表できるものを未だ作って無い故であるわけで(ふぁぼったーのロゴ等だってほとんどマトペの仕事に茶々を入れる感じで作ったようなもんだし)、

自分の劣等感とか、うだうだ言ってないでさっさと成果を出すことにします。

というわけで以後もよろしくおねがいします。

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技術面に関係するのはもっぱら blogspot の coding as drawing の や gist のGist に書いていったりすると思います。

他人へのお節介で「優しいワタシ」を自己実現する人たち

このところ、"自分からはそう見える"一つの人々のパターンがあって、それは「Aという目的を実現したい」のではなくて「"Aを実現できるワタシ"を自己実現したくて動いている」人、というのをキーワードにして考えている。

問題に便乗して自己実現がやりたいだけの人たち

例えば、普段から自分の選挙区の候補者をマメにチェックしているわけでもないのに、選挙の時期になったら「投票に行かないのは非国民だ」とばかりにまくしたてたり民主党政権下の不義等々を雄弁にtwitterに垂れ流したりRTする事で「憂国の士であるワタシ」を実現しようとする人々。

例えば、もうデスマになり、人がどんどん去る中、自身が組織をブラック企業へ順調に育てている事を認めず、よりパワハラや根性論ベースの成功体験の押し付けを続けて働き手の心身を疲弊させる、「ビジネスパーソンとして優れたビジョンを持ち、マネジメントの手腕もバツグンでサクセスストーリーを歩み続けるワタシ」を実現しようとする人々

例えば、「誰かの誕生日お祝いパーティしよう!!」と企画はするものの、主賓たる本人の都合を考えようとせず「あれやったら楽しいんじゃないの」「これやったら楽しいと思う!」とどんどん"自分が楽しめる"事だけを基準に企画を進めていって、祝われる当人がどっしり気分を重たくさせる、そんな「ムードメーカーで仲間内の盛り上げ役」を実現しようとする人々

例えば、心労極まって親しい人から心配される事すら重荷に感じるような繊細な状態の人に「つらい事があったら、何か力になりたい、自分がいる事で、何かあなたが良くなれるような事をしてあげたい」なんて台詞を"わざわざ"伝えて猶の事メンタルヘルスを悪化させているような「本当に思慮深く、友人思いの優しいワタシ」を実現しようとする人々

「自己実現ができるかどうか」を本題にされる

すべての人がそういうわけでもないし、自分にだってそういう「こうありたい自分」の為に対外的な振舞いを無自覚にやるだろうと思っている。

が、厄介なのは相対的に「自分よりも"その"傾向が強い」と感じさせる人は、大抵直面している具体的な問題がその人と一緒では絶対に解決する為の進展を見せない、という経験則だったりする。

2例目に挙げたブラックな組織のマネジメントの場合、直面している問題は「火を吹いているプロジェクトの鎮火」であり、長期的な課題として「そもそも火を吹くようなマネジメントを回避する事」であるはず。が、「自分のフォローによって解決となるかどうか」で物事を決められてしまう。

4例目であれば、労りたい相手が自発的に関わり合おうとするまで心の調子を回復させられるかどうか、が肝心であるはず。しかし、それでは「友人のメンヘルを解決してみせた」パフォーマンスができないが故にお節介を繰り返す

「こうありたい自分」の自己実現で動く人たちにとってはそれは大きな問題ではなく、その場その場で実現できているかの方が重要になってしまっている

自己実現がしたいだけの人とは、問題解決のパートナーになり得ない

自己認識というものは比較対象や、評価者である他人からの反応を受け、それを自身の経験則により判断していくインタラクティブなもので「自分か常になんらかのアクションを働きかけ」るか、あるいは自分を知る人間からの評判を把握することでしかその判断材料を得ることができない。

簡単に言えば、カタチを変えた「かまってちゃん」であり、ゼロから何か為して周囲の注意を引き承認欲求を満たそうとするよりは、終結に時間のかかりそうな問題に便乗しながらその中でアテンションを得る方が、お手軽に承認欲求を満たせるというわけだ。

よって、そういう人と共闘で一つの問題解決にとりかかろうとすると、「実際に解決せないかんので方法を考えたい」自分と「解決する事ができる自分でありたい」人とで視点の違いで苦労する。実際した。

そんな話。

蛇足

何かと定期的に話題になる「はてブのコメントのいけ好かん印象」問題、あれも100字内でさらっと一言で済まされてしまう故に何かこう「賢い自分」の自己実現をされてしまってるんじゃないか、みたいな、そういう被害妄想をしやすい感じがあるんじゃないかなぁと、ついでに思った。

あー、togetterの一部キモく感じるのもとある問題についてのtweetまとめて適度に自分の主張もおりまぜる事で「この件に関して明晰な分析、深い理解を持っているワタシ(別に問題自体がこれで早急に解決するかどうかは知らね)」っていう自己実現欲っぽいのが感じるからなのか

だるい、自己実現って文字打ちすぎだ

すごい自由

これはあえて思いついた順番で、整理しないで駄文書く。だいぶ悪文になると思う

ここは自分のスペースなんだから、もうちょっと好きに使った方がとりあえず良いか。
ブログ論ではないけど、はてな「ダイアリー」なんだからこうわざわざブログ運営みたいにせんでも、twitterのように取り敢えず気にしないで何でも書いた方がいいな、と。
「あんなことしたー、楽しかったー」「こんなの食べたー、おいしかったー」みたいな話題と「○○についてのことなんだけど…」「××って記事とid:###さんにムカついたのは…」とかが混在してても、とりあえず使ってみてから整理すればいいじゃんと思った。

こう、自分が見かけるブログとかって、ちゃんと「このブログはこういう話題についてとりあげ…」とかがやけにしっかりとしてて、id:min2fly は大学入学来の友人だけどいやぁ良くそうしっかりとできるなぁといつも思ってた。

なんでそんなにみんなちゃんと自分の興味ある問題をしっかりと絞れるんだろう。自分みたいに奔放散漫としてないのだろう

あるいは、なんでそんなに毎度毎度論理立てたちょっとした論文のような文章構成で書けるんだろ

あるいは、なんでそんなにあっさりと淡々とした日記を書けるんだろう。(僕はこれが一番羨ましい)

と思っていた。

ライフハック系の記事なんかには「貴方のブログに人をひきつけるNのなんとか」というのがあって(ブクマしてないからごめん忘れた)、そん中には「ブログで扱う話題をちゃんと絞って、読者に「ここは○○の事が書いてあるブログだ」と覚えてもらう」というようなポイントがあって。
それはその通りで、いち読者の自分にとってはLDRで購読してるブログには基本的にそういうものを期待している部分がある。

でもそんな本当は「誰もそれをルールとし、それに従わせる人はいない」し、「自分がそれを守らなければならない」わけじゃなく。あくまでも課すのは自分で、書ける人はそういう自分でルールを課して行える人なんだなぁというだけだった。

実際、すごく自由だ。
なにか論理の前提と結論の関係がおかしければ指摘されるし、情報が事実誤認であれば指摘されるけど、「その指摘を受けいれて修正する」ことも「指摘を誤まったものをする」ことも「指摘の方が正しいと判断したが、無視する」もすべて選択できる自由がある。過ちだとして次に活かすも、反省して「この手の問題には以後タッチしない」も、それの行動の決定も自分の自由意志だ。(サービス運営の会社や、勤め先の上司に止めろって言われるようなものもあるかもね。でもそれってよっぽど希少なケースだと思う)

ブログを見る人にだって、学校の宿題で「歴史的認識の誤まったものだからコメントしなきゃいけない」とかがあるわけでなく、あくまでスルーするのも、倫理的に許せないからコメントするとか、あるいはブコメで100字程度で好きな事をコメントできる。ブコメ同士で意見が衝突するのだって、それを選択するのも自由。

ほんとは自由なのに、なにかさも「見えないルール(やらなきゃいけない、やってはいけない、守るべき)」ものがあって、それを尊守しないといけないような「気になってた」

今の書いてるコレだって、「ちゃんと文章の構成ができてないと」とか「論理が順序よく、ちゃんと完結してないか」とか「書いてる内容に事実誤認が無いか」とかそういう「学校や自分の見聞きした教養的な「良きやり方」を尊守してるか」、ヘンテコな自意識と格闘しながら書いてる。他人から見たら莫迦らしいけど、書いてる当人からしたら、「自分の好きに、自由に書く」行為にけっこう苦労する人がいる。

「とりあえず、まずつくること。つくった後でないと論理的であるとか、社会的な問題を解決しうるとか、倫理上問題があるなしとかなんて判断できないし、それらを満たすような修正もできない」
って考えたら、多少気楽にはなれるし、似たような事が幾人かの日記やら文章で散見するよね。*1

本来は何書いたっていんだと思いなおした。だからもうちょっと好きにいろんな事書こうかと思う。
いままで、もっとちゃんと日記らしく、その日の出来事を書かなきゃいけないとか、そうでなかったら多くのブロガーがやってるように、ある出来事について述べる的な事をしなきゃいけないとか、勝手にそんな事を思ってた。

もうちょっと、たとえば唐突に思い出した思い出を書いておくとか、今日考えた事とかをだらだら書くとか。話題が散漫としようが、なんかやったら長文で読みにくいとか、悪文で読めたものじゃないとか、それが自分なのだから今はしょうがないて。*2

何故か知らないけど、こんな自分の考えとかを、意外と知られるのがこわかった。で、ブログに書いちゃうと駄目そうだなぁって勝手に思っていた。不思議。周りにつまらないと思われるとか憶してたのかな。

*1:ただ、これはあくまでも利害が自分の中だけで完結するようなものでないのならちゃんと考え続けた方が良いし、そうすべきだと僕は思うよ。特に誰かに迷惑かけうるものなんかは

*2:当然、時間をかけて良くなっていきたい

消した

ようつべトップにこのサムネが表示されてると
見たくもないのに目につくから不快は不快ですよ

とりあえず、今回は引っ込めてもらえませんか、何よりとてもグロテスクです、意見を求めたいのなら専門の技術系サイトにアップすればよいのだし、ytを開くとこの画像がトップのお勧めに出てくるので気持ち悪くなります、これでは悪意があると思われてもしょうがない

というコメントをいただいたので、もう消すしかないか。とおもって削除した。

一旦トップに出るとプライベートにしてもトップにサムネとリンクは出つづけるし、コメントをちゃんと返すほど「話題の動画(今月)」に出続けてしまうし、YouTubeのスタッフにトップへの非掲載のお願いをメールしたりもしたんだけど、対応を待ってる間にこういう気分を害する人たちをぞろぞろ作るのはよくないと思って、いっそのこと削除した。
vimeoにはまだ残ってる。

動画消すと良い、ってコメントも、悪いってコメントも両方消えるから、なんか一番罪悪感を感じる。メールフォルダにはしっかりと残ってるけど。
http://jp.youtube.com/user/VoQn
しばらくプロフの方に意向文載せる。

見て気分悪くなった人、申し分けありませんでした。

youtubeにprocessing_sketchアップしていたら意外と見られてビックリしたどころじゃなくなってあせった。

youtubeのおすすめに紹介されたよ\(^o^)/

f:id:VoQn:20080605034560p:image:w450
30日づけでこんなメールが来てたんですが、気づかないで自分の動画みてたら、一晩で98→2,300→12,280とviewが増えるじゃありませんか。なんじゃこりゃ、自分のtwitterのfollowerの数と一桁も違うので異常なことが起きたのかと。
そうこうしてるうちに
f:id:VoQn:20080605034600p:image:w450
と被リンクされる間口が増えていき(6月5日現在。ピーク時は13とか)
f:id:VoQn:20080605034601p:image:w450
しばらくyoutube globalのカテゴリTopに載っていました。ギャース!!
今の時点で再生回数37,284。ありがたいやら、なんか申し訳ないやら(なんとなくそう思ってしまう)

べろりめくれた感じ

実際はコトはyoutubeの中だけで起きていたので、不思議におもいつつ、今までyoutubeって自分の位置付けでは単なる自分用の動画置き場でしかないとか、もっと言うとお気に入りの動画情報を保存したからだけでアカウントもっていたのもあって、「自分が見るもの」という認識だった。でもこんな風にどっと見られて、コメントがついて、ザイーガにも載っちゃって*1という体験をすると、ああ、自分も「見られる側」でもあるんだなぁ、というのをネットでも思い知った、というか。

え、おまいさんfavotterでもはてぶでも人にわりと見られているやんけ、という話なんだけど、これはスケールと距離の関係なのかな。あまりにも、それまでの縁がなさすぎる人に普通に見られる、且つそういう距離のままでメッセージをもらう感じ。

むしろtwitterがアンカーになって自分のネットワーキングがはじまっていたので、他の人の認識とズレてるんだろうな。

それまでtwitter,tumblr,SBMが主要ネットワーキングだったので、能動的ゆえに「見られる」って意識はあまり働かなかった。そんな中でいきなり一日1万ペースで「これを置いた背景も文脈も、内容も知らない人が見にきた」っていう体験はインパクトあって、初心の、というか小心の自分にとっては怖っ!! と思った数日間でした。

「見せなきゃいいのに!!」に対して

f:id:VoQn:20080605042211p:image

プログラム的にもヴィジュアルアートとしてもなんら真新しいとか、クリエイティブなもんかっていわれたらはっきりいって卑下も謙虚も抜きで「大したことない」ので別に「これなに?わけわからん」とか「物理的に変じゃね」とかまっとうな意見だと思う。

Twitter / ( ` 。´): プログラム的にもヴィジュアルアートとしてもなんら真新し..

f:id:VoQn:20080605042212p:image

ただ、「じゃあそんなもん見せんなよ」ってのが来たら凹むかも。決定的に新しいとか、技術的にすぐれている証明として見せられなかったら発露もダメとかだったらブログもtwitterも何もかも表現できなくなる。

Twitter / ( ` 。´): ただ、「じゃあそんなもん見せんなよ」ってのが来たら凹む...

今の素直な心象としてはこんな感じ。


正直、困っているのが「見せないでよこんなの」という主旨のコメントにどう向きあうのがいいのかな、ってこと。
たしかに、彼の動画って自分でテストしてるうちに「うわー動きキモイなー。もっとそれが引き立つような配色とグラフィックにしたらもっとキモおもろいかも」と意図してやってたんだけど、やっぱり不快に思ってしまう人がいる。

ただ、「一覧にコレが表示されてると見たくもないのに目につくから不快」と言われてしまうとこれはもう削除するか、youtubeに申し立てて一覧から外してもらうか、公開をprivateにするしかない。でもその人にとってはそうしてもらわない限り嫌なんだろう。

もちろん、去年一年展示してたすきまの椅子にしたって、そういう不評はあったのかもしれない、そしてそれは自分が聞こえないところにあった。それにくらべて、オンラインだと文句が探しだせる、という意味の有意義もあるんだろう。

単純に、見てくれて、それに何か思いを持つ人が増えることって、それだけで充実感はあるんだけど、それが負を呼ぶものだったとしたら、なんか悪いことしたみたいで、つらい。

*1:[http://www.zaeega.com/archives/50597880.html:title=ザイーガ:【MOVIE】蓮コラ的、バウンドボール]